「出会えた人出会えなかった人 島倉千代子 その1」

 古い付き合いの作家の吉永みち子からある日電話が入った。「あした、島倉千代子と食事をすることになっているんだけど、たしかあんた、昔ファンクラブに入っていたことがあるとか言ってたよね。どう?良かったら来る?」
 赤坂の料理屋に黒づくめの洋服を着てメガネをかけてその人は緊張した表情で座っていた。「はじめまして、島倉と申します」。もちろん初めてではない。彼女が覚えていないだけだ。ファンクラブの行事や江東劇場での正月の島倉千代子ショーの合間の楽屋訪問、それに新聞記者になってから大阪のフェスティバルホールの楽屋を先輩の音楽記者に連れて行ってもらって訪問している。
 この日の島倉千代子は、そのいずれの時とも違う印象の佇まいだった。話ははずまない。吉永みち子と同席した評論家の佐高信らが、何やら別の話をしている。島倉が口を開いた。「私、実は何も知らない人間なんです。」うつむき加減にそう言った。何も知らないなどと言った人間を初めて見た。なんでも知っているようなことを言いがちな政治家などに会うのが僕の仕事だけに、驚いた。
 その瞬間、そうだ、これだ、と閃いた。そのころ台湾、中国、日本を舞台にした小説を書く準備をしていた。台湾での取材を終え、長崎の取材もあらかた終えていた。しかしながら、なかなか筆を取るまでに熟していかない。「そうだ、島倉千代子を書くことにしよう!」このとき、島倉千代子58歳くらい、ぼくは51、2歳だったと思う。

 島倉千代子の歌に魅入られてからそのときすでに40年経っていた。

スクリーンショット (8)
大学の講義での一枚。

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