「出会えた人出会えなかった人 島倉千代子 その2」

 翌日、新潮社の担当編集者3人に来てもらい、島倉千代子を書くことにするので小説はやめる、と告げた。唖然とした顔つきだったが、うん、面白いかも。取材費もかかるでしょうから、費用捻出のためと、早く書き上げるために雑誌で何回か連載してそれに書き足す方法で行きましょう。一年くらいで出版ということで、と決まった。 島倉千代子にあなたをテーマにして本を書きたいので了承してほしい、と手紙を書いた。会社の私の電話に留守電が入っていた。消え入るような声、島倉千代子だった。「私、嬉しくて…」あとは言葉が続かず、呼吸だけが記録されていた。

 当時、島倉千代子は代々木八幡神社の裏手にあるマンションに住んでいた。「トラストミュージック」という名の事務所はNHKのそばにあった。それからしばらく、毎日のように島倉千代子を追いかけた。彼女が行動するすべてを観察する。旅先でもどこへでも付いていく。寝室、トイレ、風呂以外のところはほとんどである。この手法は米国の大統領のスピーチライターが用いる手法で、それに習った。その間、質問はしない。存在すると思わせないようにただそばにいるだけ。メモも取らない。一つだけ注文をつけた。「これはあなたをテーマにした本ですけれど、あなたの本ではなく僕の本です。書く内容に口出しはしないで下さい。それから交通費、宿泊代、コンサートのチケット、すべて自分の分は払いますのでよろしく。」

 島倉千代子に会いに来るすべての人、幸子姉さん以外の人すべてが「カンバン」と呼ぶ。どういう意味?と尋ねたら、おそらく「看板歌手」ということでしょうと、コロムビア・レコードの人が教えてくれた。このころレコード会社の島倉担当は何人かいたが、偉い人は大木舜という人だった。いまもお付き合いがあるが、とてもよくしてもらった。レコード会社の、たしか専務くらいまで上がった人で、ずっと、大木さんと呼んでいた。ある日、大木さんの横顔を見ていて、ふと気が付き、尋ねてみた。「大木さん、昔バレーボールしていなかった?」「していましたよ、高校のころ」大木さんは東京都立立川高校の1年後輩だった。卓球部だった僕とは部室が隣で、よく見かけた顔だった。後輩とわかってからも大木さんと呼んでいる。

島倉千代子サイン会
「島倉千代子という人生」を出版した際のサイン会の様子

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